古代エジプトの美女たちが世界中から東京へ |
貴重な名品約 180 件が結集! |
クレオパトラとエジプトの王妃展 |
CLEOPATRA AND THE QUEENS OF EGYPT |
古代エジプト王国といえば、だれもがピラミッドや神殿などの壮麗な建造物を思い浮かべることでしょう。 この約三千年もの長きにわたる王国を支配したのは、ファラオと呼ばれた王たちでした。 |
展覧会の見どころ |
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'2015 7/10 報道内覧会の会場内の風景です。 画像をクリックすると大きな画像でご覧いただけます。 |
・181 《クレオパトラ》 1852〜53年 |
「クレオパトラとエジプトの王妃展」 |
クレオパトラ
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―世界中を魅了する、古代エジプト最後の女王― |
「展示構成」―本展覧会 図録 「クレオパトラとエジプトの王妃展」、 PRESS RELEASE より抜粋して掲載しています― |
本展覧会は、古代エジプト史上、最も著名な女王であるクレオパトラ (クレオパトラ 7世) をはじめ、女王として君臨したハトシェプスト、王の寵愛をもとに王朝の絶頂期を支えたティイ、アマルナ時代を代表する王妃ネフェルトイティ
(ネフェルティティ) など、当時の政治や宗教に多大な役割を果たした王妃や女王たちをメインテーマにすえ、彼女たちの実像に迫る内容となります。 彼女たちにまつわる像やレリーフ、装身具など約180件は、ルーヴル美術館、大英博物館など、世界14ヵ国の美術館・博物館をはじめ、個人コレクターからの展示品となります。 |
「本展の構成」 |
'2015 7/10 報道内覧会「クレオパトラとエジプトの王妃展」の各章の概要と会場内展示風景です。 |
第T章 王 (ファラオ) をとりまく女性たち |
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・2 《王妃ヘテプへレスの肘掛椅子》(複製) |
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王妃ヘテプヘレスの竪抗墓は、1925年2月にアル=ギザのクフ王の大ピラミッドの東側で、ハーヴァード大学とボストン美術館の合同調査により偶然発見された。 納められた家具調度品は、見事に復元され、4600年も前の古代エジプトの木工技術を今に伝えている。 |
第U章 華やかな王宮の日々 |
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・36 《セティ2世》 新王国・第19王朝時代 セティ2世治世(前1199〜前1193年頃)
41.5 花崗岩 |
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両腕と下半身が欠損した王像である。 長い髪を顔の左右に振り分け、正面に聖蛇ウラエウスのついた鬘を被っている。 背柱には、縦書き1行でセティ2世の即位名と誕生名が刻まれている。 |
第V章 美しき王妃と女神 |
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・127 《アメン神妻のスフィンクス》 第3中間期・第25王朝時代 タハルカ王治世〜末期王朝・第26王朝時代 プサメティコス1世治世9年(前690〜前656年) テーベ、カルナク神殿出土 46.5 x 25.0 x 82.0 花崗閃緑岩 ドイツ、ベルリン・エジプト博物館 |
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シェプエンウペト2世のスフィンクスである。 彼女は、第25王朝初代のピイ王の王女で、タハルカ王とシャバカ王の姉妹にあたる人物である。 アメン神の聖水を捧げており、容器の蓋はアメン神の聖獣である牡ヒツジの頭をかたどっている。 シェプエンウペト2世は、タハルカ王の治世から第26王朝プサメティコス1世の治世9年まで、アメン神妻として権力を行使していた。 テーペのカルナク神殿で発見されたものである。 |
第W章 権力をもった王妃たち |
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・137 《神官の監督サテプイフウ》 新王国・第18王朝時代 ハトシェプスト女王治世(前1473〜前1458年頃) |
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神官の監督の称号をもつサテプイフウの大型の方形彫像である。 アビュドスにある彼の墓で発見された。 大きな鬘と顎鬚をつけた姿で、顔の前には組んだ両手が簡略に表現されている。 方形彫像という形式の像は、中王国時代に出現したもので、膝を抱いている姿が胎児の姿勢と似ていることから再生を象徴するという見方もある。本像には横書き13行のヒエログリフの銘文が刻まれており、彫像を四角形に作ることによって、多くの碑文を刻むことを可能としている。 |
第X章 最後の女王クレオパトラ 古代エジプト最後の王朝であるプトレマイオス朝(前304〜前30)は、マケドニアのアレクサンドロス大王(在位:前336〜前323年頃)の東方遠征にしたがった将軍のひとりであったプトレマイオスが、大王の死後、王を宣して独立したギリシア系の王朝でした。 この王朝の最後の支配者がクレオパトラ女王です。 クレオパトラの名をもつ王妃が歴史上数人いることから、クレオパトラ7世の名でも知られています。 父のプトレマイオス12世の死後、権力の座につこうとしたクレオパトラは弟の支援者のよって一時期国を追放されましたが、ローマの有力者ユリウス・カエサルの後ろ盾を得て、エジプトの女王となりました。 カエサルとの間には息子カエサリオンが誕生しています。 |
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・172 《アクティウムの海戦のレリーフ》 ローマ時代 ユリウス・クラウディウス朝(前27〜後68年) |
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前31年9月のアクティウムの海戦によって、アントニウスとクレオパトラ女王の連合艦隊は、オクタウィアヌスの艦隊に敗れた。 オクタウィアヌスは、比較的軽量な350隻の船をアントニウスの重量にある200隻の艦隊に向かって並べた。 クレオパトラ女王は比較的軽く機動力のあるエジプト艦隊をもっていた。 戦闘はアントニウスの撤退により、オクタウィアヌスの勝利に終わり、クレオパトラはアレクサンドリアへと逃れる。 下方には、ぶつかり合うガレー船が描かれている。 右からくる船は、船首に飾られたケンタウロスからアントニウス総司令官が乗る船であることがわかる。 その船と向かい合う船にはオクタウィアヌスが乗っている。 |
図録 「クレオパトラとエジプトの王妃展」 |
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アレクサンドロス大王(在位:前336〜前323年)はエジプトを無血で征服し、ペルシア政権の下に抑圧されていたエジプトの解放者として迎えられた。
ファラオの正統な後継ぎと認められた後、アレクサンドロス大王は現地の行政官にエジプトの統治を任せ、新しい国々へと出発する。 しかし、アレクサンドリアという新しいギリシア都市の礎を築いたのはアレクサンドロス大王である。
そして前323年、大王の死後、その広大な領土は将軍たちによって分割され、エジプトの王座についたのはアレクサンドロス大王とともに戦った遠縁の血縁者プトレマイオス1世ソテル(在位:前304〜前282年)であった。
外国人の征服者と思われるどころか、プトレマイオス1世はエジプトの聖職者として迎え入れられ、ファラオとして認められた。 さらに、神に選ばれた神殿の守護者となった。
それから8世代の後にクレオパトラが登場するのである。 300年の間、プトレマイオス朝の王は、エジプトの経済と行政を発展させた。 |
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クレオパトラは、古代世界最大の都市のひとつ、エジプト・プトレマイオス朝の首都アレクサンドリアの宮殿で幼少期を過ごした。 アレクサンドリアの市民はギリシア人であったが、そこは地中海世界の文化と古代エジプトの伝統が織りなす文明のるつぼであった。
そして、有名な図書館と博物館があったアレクサンドリアは、当時の知的世界の中心地でもあった。 ナイルの河口に位置するアレクサンドリアは、エジプトの豊かな物資や古代世界の商品の交易拠点であった。 |
お問合せTel:03-5777-8600 (ハローダイヤル) 展覧会公式サイト:http://egypt2015.jp 主催:東京国立博物館、NHK、NHKプロモーション、朝日新聞社 後援:外務省 協賛:大日本印刷、トヨタ自動車 協力:日本航空、KLMオランダ航空 制作協力:The Grimaldi Forum Monaco、ファクト・コンセプトゥール社 |
参考資料:「クレオパトラとエジプトの王妃展」図録、 PRESS RELEASE 他。 |
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